円福寺について

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円福寺由来記

横田の今昔

その昔、千曲川は大きく蛇行し、対岸の雨の宮神社の近くを流れ、妻女山の麓を過ぎ、松代海津城跡の自然の堀となって流れていました。
この横田の地名が歴史に現われるのは、木曽義仲が兵を挙げ、北陸路から京都に上る最初の戦いが、横田河原の戦いであり、その古戦場跡が、富士宮の洞となっております。それは今から八百年も前のことです。
それ以前は、万葉集の歌にも「信濃なる千曲の河のさざれ石も君し踏みてば玉と拾わん」と歌われているように大化の改新による「口分田」の跡もあり、更にさかのぼれば、縄文時代、弥生時代の土器が、千曲川の堆積土から発掘され、また、最近、河向うの森村に大きな将軍塚が発見されました。
そのような速い古代を偲び、戦国時代の絵巻、川中島合戦の詩「鞭声粛々夜河を渡る」と頼山陽が吟じた、浅瀬のあったあたりの堤に立てば、伝説に残る姥捨て山から、最近聞けた高速道路を、自動車が矢のように下って来ます。
1998年には冬期オリンピックが開かれる長野市には新幹線、関信越高速道路も通じ、長野市の南のはずれの、千曲河畔の円福寺が、日本の中心になりそうな思いもよらぬ時代の変遷を迎えました。

円福寺開創

今は西横田と言っておりますが、昔は上横田と称し、犀川から流れ出る岡田川の洪水をさけるための、千曲川へ流れ入る運河を聞くまでは、上横田の畑も部落も、今は河原となってしまった川の向う側にあったのでした。
今では千曲川の堤防の外に、日吉神社跡の碑が建っていますが、古老が語るところでは、この神社のそばにお堂があったと伝えられています。
それが今日の円福寺のもとであって、知っているのは、門前の大欅だけですが、豊かに栄えたこの村の人々の信仰の願いによって、松代の御朱印地であった浄福寺の五代能國咄藝大和尚を開山にお迎えして、龍眼山円福寺というお寺が開創されたのですが、実際に住職されたのは二世伝國全長大和尚であって、浄福寺を本寺にいただくために、能國咄藝大和尚を御開山に拝請したことと察せられます。
というのは御開山さまより二世さまの方が先に万治2年(1659)に示寂されておられます。 今年から逆算すると、334年まえですから、円福寺の開創が、それより16年前とすれば本年が、350年になるのですが、「いつもまる焼け円福寺」と言われ、幾度か火災にあっているため、過去帳だけは残っていますが、古記録がなく正確な開創の年は明らかでありません。
しかし、350年前後の歳月を重ねたことは間違いありません。
そこで、二十世孝順光世和尚の晋山結制を記念して、この平成5年(1993年)5月16日を開創350年として、当山の愈々隆盛ならんことを祝祷し、御開山始め各世代さまの慈恩に報いんとするものであります。

代々住職の業績

更級郡史、更級郡教育史によりますと、円福寺の住職は代々、寺子屋を聞き、近世史に入り、八世普宗瑞門大和尚、九世再中興海光密音大和尚、十世蘭海密秀大和尚、十一世千厳密仙大和尚(この十一世さまが藤本密仙さまで大変な学徳であられた由)十二世玄壡無底大和尚さまもすぐれた学僧で、後に本寺浄福寺の住職となられましたが、たまたま、明治維新の松代藩の午札不渡事件がおき、農民が怒って抗議陳情のため、今で言えばデモンストレーションを起し、上山田村網掛の養子某が先頭に立ち一手は千曲河の対岸戸倉、屋代を、一手は桑原、稲荷山、塩崎の村々を通過するうちに、デモの人数は増加し、夜に入ると一揆は興奮して盗み焼打を始め、遂に松代藩は兵を出してこのデモを鎮圧したと更級郡史に記されていますが、その折、円福寺も焼き打ちにあって「本堂、客殿、衆寮、学寮、宝蔵、玄関、諸道具まで皆焼失す」と過去帳に記されています。
今より百四十二年前のことです。
そして、現在の本堂は、明治12年に十五世重興章林文国大和尚によって再建され、それまでは30年間、旧家を買い受けた庫裡に本尊さまを祀っていたそうです。
十六世俊山戒秀大和尚さまは、大般若経六百巻を十方の施主によって什物とし、土蔵を建てられましたが、明桂寺に移住され、十七世器田全苗大和尚さまは大学者で、明治維新によって学制が施行されるや、先住地宝昌寺の寺子屋を、そのまま通明小学校とされ初代校長をつとめられました。

このように代々の住職が、地域の青少年の教育に貢献した功績により、松代藩より六文銭の寺紋を許可され、寺領を拝し、檀家は無くても、東西横田区全戸が信徒であり、代々の住職の徳により、寺有地は十数町歩となり、住職は寺子屋を営み寺門は興隆しました。
こうして度重なる火災にあいましたが、門人によって建てられた境内の天満宮の筆塚の碑が、今も、寺歴を語っています。
しかし、十七世さまは大学者でありましたが世事にうとく、すすめられるままに、長野市にガス会社を建てる事業に出資され、寺有地の大半を失われ、やむなく山梨県に移住されたあと、弟子の玄外全機大和尚が十八世を継ぎました。

十八世の生涯

私の父である師僧十八世法噛開闘中興玄外全機大和尚は、東横田の旧家、宮尾治左衛門の三男で、宝昌寺に小学校が開かれるや、第一期生として入学しました。
そして校長先生であった十七世さまに見込まれ、家にいては一生百姓だが、お寺の弟子になれば、勉強次第で大学へも行けるとすすめられ、まだ九才の子供でしたから、校長先生が神さまのように思えて、親の反対を押しきって仏弟子となったとのことです。
けれどもお腹がすいたときは、朝早く野菜を市場に出すため大八車をひいて来る両親を村はずれで待っていると、おむすびを車につるして来てくれたそうです。
親子ですからね。

十六才になって一度実家に逃げ帰ったそうですが、幼い子供に「ぶっかえり」と言われて、これでは一生ぶっかえりになってしまうと、心を決して円福寺に帰りましたが、お師尚さまが借金で学費がだせず、東京に遊学したいと願っても、法華経八巻と理趣文というお経を暗請するまでは駄目だと言われ、一生懸命暗調したそうです。師僧は毎月の一日、十五日の朝は晩年になっても理趣文というお経をそらんじて唱えていました。
そして十九才の折、遂にお師尚さまと問答をして、意を決して上京し、苦学して中学を卒業し、第一高等学校を受験しましたが不合格で、志を共にした栗木智堂師は合格し、曹洞宗として最初の東大卒となられました。
それが、どんなにくやしかったか、「わしは学界の落伍者だ」と、口癖のように言われました。
十七世さまが借財のため円福寺を退去しなければならなくなり、急拠、円福寺を継ぐことになり、二十六才で円福寺の住職となりました。
寺には何一つなく、せんべいのような座布団が一枚あっただけだそうです。
借金とりがみんな持ち去ってしまったのです。
しかし、師尚の借金は死んでも返すと決心し三千円の生命保険に入り、青少年のために円福寺伝統の寺子屋を始めました。
やがて曹洞宗の師弟を養うための、長野中学林の講師となり、後に總持寺の貫首となられた渡辺玄宗禅師も生徒であられた由、しかし、それだけではいられなかったのでしょうか、上京したために時代の風潮にもふれたせいか、加藤咄堂先生の福田会に入り、信濃福田会を創設し免囚保護事業をおこしたり、蓄音機を購入して村人に娯楽を与え、近隣の村々からも蓄音機を借りに来て、蓄音機のお寺と言われて有名になったそうです。
また弟子を育てるために龍眼山育英会という、当時としは県下一のたのもし講をつくり、何人もの弟子を大学に出しました。
また中央から加藤咄堂先生を招いて、仏教講演会を聞いたところ、多勢の聴衆で、本堂のゆかがぬけ落ちたそうです。
そして曹洞宗が議会制度を設けることになるや、推されて第一回宗議会議員に当選し宗政にたずさわるようになりました。三十六才でした。
やがて宗務庁につとめるようになり、庶務部長、財務部長、教学部長等を歴任し、総持寺出張所の監院となり、帰っては長野県全県の宗務所長二期八年をつとめ、最後まで特選宗会議員をつとめ、杉本道山禅師の信任により、名古屋市覚王山日泰寺の代理住職をつとめ、晩年は、本寺浄福寺の住職となった弟子の月岡忍光師が教職にあったため、その留守居をつとめていましたが、親友総持寺西堂飛円順師の三回忌に福島県熱塩示現寺に参り、その地で急逝しました。
七十五才でした。
円福寺を別格地にして下さった、父であり師尚である中興十八世さまの生涯のあらましです。

円福寺に遺す宝物

このような円福寺代々の住職のお蔭さまで今日の円福寺が350年の歴史を重ねて存在しているのですが、戦後の農地開放によって私の代ですべての寺有地を失い、寺は無一物となり、檀家は私の住職したときは三十戸でしたが、現在は五十戸、そしてお墓が一基もない寺です。
昔から学問寺であり、地主でもあったので、檀家も少く、霊園も無いのです。
お蔭さまで、寺務が少なく、住職は好きなことができるまことによいお寺です。
そして、今後末代、円福寺の住織たるものは、自ら法輸を転ずる以外に円福寺を護持することも、寺族を養育することもできません。
けだし、ただ一つ円福寺に私が残したものは、私が大本山総持寺僧堂の飯頭(めしたき)の役をつとめたときの大杓子であります。
その大杓子には、渡辺玄宗禅師が次の如く揮毫して下さってあります。

ここに二十世に任をゆずり退董するに当り、爾後代々の住職、つとめて仏道を修証し、貧寺と雖もひたすらに法論を転じ、無一物中無尽蔵なる法財によって、最小限度の必要に生活し、最大限度を法のため社会のための報思に尽し、貧を以て足る当山の寺風に安んずべきことを記して、この由来記をとどめ申します。
最後に、檀信徒始め十方の檀越よく貧道の願行をたすけ、寺門を護持興隆して下さったことを謝し、檀信各家の隆盛を念じ、有難く御礼申し上げます。
尚、退董しでも、あの世へのゲートをくぐり、最後のテープを切るまで走りつづけます故よろしくお願い申し上げます。

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